Masuk山から、生き物が消えていた。 飢えは混乱を招き判断を誤らせる。 もはや長き眠りに入れぬ身体ではないか…。 毎日のように二本足たちが山へ入ってくる。 山を踏み荒らし、長い筒を抱え、黒い羽虫を空へ放ち、黒い鳥の羽ばたきは山の木々を薙ぎ倒す。 巣穴へ戻っても落ち着かない。 耳を閉じても、あの羽音が頭の奥に残っている。 腹が減っていた。 何日もまともに喰っていない。 身体が求めているものは、もう二本足のあのメス。 恐怖に震えながら逃げる姿。 汗と涙の匂い。 牙を立てる前から漂う、あの甘い匂い。 それだけが頭から離れない。 我は巣穴の奥で目を閉じた。 あの若いメスの姿が浮かぶ。 老いたオスの後ろで震えていた、あのメス。 あと少しだった。 老いたオスがいなければ、あの柔らかな首へ牙を沈めていた。 喰いたい…。 喰いたい…。 喰いたい…。 喰いたい…。 我はゆっくり立ち上がった。 もう山には喰うものがない。 二本足たちが山を壊す。 …ならば…。 最後に、あのメスだけは逃がさぬ。 それだけを考えながら、我は山の中を歩き始めた。 尾根を越え、沢を渡る。 脚は重い。 空腹で身体が軋む。 それでも止まれなかった。 風の奥から、微かにあの匂いが流れてくる。 若いメス。 忘れたことなど、一度もない。 山の土を踏みしめながら、二本足の匂いが流れる方へ歩き続けた。 第十六話 山の理 若いメスの匂いは、山の下から確かに流れていた。 近い。 木々の間を抜け、静かに木に囲われた巣へ向かう。 風は我の方へ流れている。 まだ気づかれてはいない。 あと少しだった。 その瞬間、 山が裂けた…。 轟音が響き、胸へ強い衝撃が走る。 何が起きたのか理解する前に、熱いものが身体から吹き出していた。 な、なんだ…。 次の瞬間、また轟音。 肩が砕け、脚がもつれる。 熱い…。 綿毛に身体が沈みかける。 木々の向こうには、何匹もの二本足が並んでいる。 なにをした…。 全員が長い筒を構えている。 その中央には、老いたオスが立っていた。 我は咆哮した。 だが三つ目の轟音が腹を貫く。 身体から力が抜けていく。 それでも前へ出ようとした。 若いメスの匂いが、まだ鼻先に残っていたからだ。 だが脚は動かなかった
山は、明らかに変わっていた。白い綿毛を踏む音だけが尾根に響く。以前なら、どこかで山の四本足が枝を鳴らし、小さな生き物たちが枯葉の下を走っていた。沢へ下りれば銀色が跳ね、水の匂いが流れていた。だが今は違う。静かすぎた。風が木々を揺らす音ばかりが耳に残る。その静けさは冬の眠りではない。山そのものが、生命を絶っている気配だった。鼻先へ流れてくる匂いも変わっていた。 煙、油、鉄。そして、濃くなり続ける二本足たちの臭気。老いたオスと出会ってから、山へ入る二本足は急に増えた。尾根にも沢にも足跡が残り、見慣れぬ匂いが木々へ染みついている。腹を満たす為、綿毛を踏みしめながら、慎重に尾根を進んだ。軽い羽虫の音?いや、山に無い空気を切り裂きながらが低く、頭上から響いた。山の空を飛ぶ生き物ではない。我は反射的に顔を上げた。木々の隙間の向こう、空を滑るように黒い影が浮かんでいた。羽ばたきもしない。風にも逆らい、ゆっくりと山を舐め回すように動いている。 …黒い羽虫…。腹の下には丸い目のようなものがぶら下がり、真っ直ぐこちらを向いていた。 見られている。その感覚が、背中の毛を逆立てた。 咄嗟に木の陰へ身を沈めた、だが黒い羽虫は我を舐め回す様に近づいてくる。低い羽音が、頭の奥を掻き回すように響いた。山を見渡すのは主である我だけだ。風を読み、匂いを追い、気配を探る。それは山に生きるものの役目だ。 なのに今は違う…。二本足たちが空から山を覗いている。黒い羽虫はさらに近づく。羽音が大きくなるにつれ、胸の奥のざわめきが怒りへ変わっていった。次の瞬間、巨木へ身体をぶつける。乾いた破裂音と共に木が軋み、傾いた幹が黒い羽虫へ叩きつけられた。硬い音が山へ響く。黒い羽虫は砕け散り、黒い破片を綿毛の上へ撒き散らしながら落ちた。羽音は止まり、静寂が戻る。だが、胸のざわめきは消えなかった…。 沢を渡り、尾根を越え、深い森へ入る。だが、どこへ逃げても同じだった。木には赤い目を持つ黒い箱が括り付けられている。近づけば小さな光が灯り、こちらを見つめてくる。 二本足たちは姿を隠したまま、見ている…。やがて遠くから声が響いた。「こっちだ!」「また壊されてるぞ!」綿毛を踏み荒らしながら、何匹もの二本足が山を登ってくる。長い筒を抱え、辺りを警戒しながら進んでいた。その匂いは、獲物を追う我
白い綿毛が山を覆ってから、生き物たちの気配は目に見えて減っていた。喰い物の4本足の群れは尾根の奥へ消え、水辺へ下りても銀色の生き物は薄い。小さな4本足たちまで、風の音に怯えるように姿を隠している。山が静かだった。だが、その静けさは以前とは違う。どこか落ち着かない。風の奥に、常に二本足の臭いが混ざっているからだ。煙の臭い。油の臭い。鉄の臭い。そして、山には存在しないはずの乾いた臭い。老いたオスと遭遇してから、その臭いは日に日に濃くなっていた。我は木々の間を歩きながら鼻を鳴らす。すると前方の木に、またあれがあった。細い紐で幹へ括り付けられた、小さな黒い箱。近づいた瞬間、箱の中央で赤い光が小さく灯る。我は足を止めた。丸い穴がこちらを向いている。生き物の目のようだった。だが、息遣いはない。体温もない。ただ、動かぬままこちらを見続けている。最初に見つけた時は、二本足の置き忘れだと思った。だが違った。箱を壊した山には、必ず後から二本足が増える。長い筒を持った者たちが何匹も山へ入り、雪を踏み荒らしながら歩き回る。木々へ触れ、地面を見つめ、まるで何かを追うように臭いを残していく。そして、その足跡は少しずつ我の縄張りへ近づいていた。我は低く唸りながら箱へ顔を寄せた。微かに、老いたオスと同じ臭いが混ざっている。煙、火薬。あの長い筒の臭い。腹の奥が熱を持つ。あの時、肩を裂かれた感覚が蘇った。我は前脚を振り抜く。箱は鈍い音を立てて砕け、硬い破片が白い綿毛の上へ散らばった。それでも胸のざわつきは消えなかった。我はその場を離れ、尾根を越え、沢を渡った。だが、どこへ行っても同じ臭いがある。木々へ括り付けられた黒い箱。こちらを向く丸い穴。近づけば灯る赤い光。まるで山そのものが、我を見ているようだった。その感覚が気に入らない。山を見るのは我だけでいい。匂いを辿り、獲物を探し、気配を読むのは山の主である我だけのはずだった。それなのに今は違う。二本足が山を覗いている。岩陰の奥まで。獣道の先まで。我が眠る場所の近くまで。知らぬ間に入り込み、姿を隠したままこちらを探している。我は木の幹へ身体を擦りつけながら、ゆっくり周囲を見回した。白い綿毛が静かに降っている。風は弱い、生き物の気配もない。それなのに、見られている。背の毛が逆立つ。不意に、遠くで乾いた音が響いた。二本足らの声。白い綿毛を踏み潰す足音。
巣穴へ戻っても、深い眠りは来なかった。肩の傷は浅い。舌で舐めれば血は止まり、肉もすぐ塞がる。それでも身体の奥が静まらない。目を閉じるたび、あの老いたオスの目が浮かぶ。小さく、老い、力も弱った二本足。喉へ牙を入れれば骨ごと砕けたはずだった。 それなのに、我は退いた…。白い綿毛が巣穴の外で音もなく降り続いている。山は静かだった。木々も、岩も、水の流れすら眠っているようだった。だが、我の内側だけが荒れていた。 腹の奥が熱い。 落ち着かぬ。 巣穴の中を歩き回り、壁へ身体を擦りつけても消えない。爪で土を掘り返し、唸り声を漏らしても静まらない。何故だ。何故、あの老いたオスから目を離せなかった。何故、我はあの場で飛びかからなかった。 思い返す。長い筒を向けたまま、一歩も退かなかった二本足。肩は震えていた。吐く息も乱れていた。畏れていたのだ。鼻先へ流れた匂いが、それを教えていた。だが、それだけではなかった。あの老いたオスの匂いには、別のものが混ざっていた。覚悟。そして、殺意。我を殺すという意思。喰い物が、牙を向けてきた。その記憶が、胸の奥を掻き乱している。低く唸りながら、我は巣穴の入口へ顔を向けた。白い綿毛の向こうに、暗い山が広がっている。この山は我の縄張りだ。縄張りへ入った生き物はすべて叩き潰した。四本足も、牙を持つ獣も、水辺の主さえ退けた。二本足も何匹も裂き、喰らった。逆らうものなど、もう居ないはずだった。それなのに。あの老いたオスだけは違った。身体の奥がざわつく。そして、不意に思い出した。まだ身体が小さかった頃。水辺の主と向かい合った時のことを。巨大な影。濁った息。睨まれただけで脚が動かなくなった。喉の奥が震え、逃げたいのに動けなかった。あの時の感覚。我はずっと忘れていた。だが今、同じものが胸の奥で蠢いている。違う。違う違う違う。 我は山の主だ。二本足など喰い物だ。 それなのに何故、胸がざわつく。何故、牙が疼く。若いメスの匂いが鼻の奥によみがえる。甘い匂いだった。まだ山の畏れを知らぬ肉。あの柔らかな首へ牙を沈める瞬間を想像しただけで、腹の奥が熱くなる。喰いたい。あの肉を喰いたい。だが同時に、老いたオスの目が浮かぶ。真っ直ぐ我を見ていた目。逃げぬ目。殺す覚悟を持った目。我は唸り声を漏らし、巣穴の奥へ爪を叩きつけた。土が弾け、乾いた石が転がる。それでも静まらない。眠れな
二本足のメスが山へ一匹で入る時、もう迷いはなかった。風下へ回り、気配を沈め、逃げ道を塞ぐ。叫ぶ前に首へ牙を入れれば終わる。何度も繰り返した狩りだった。肉を喰らったあとも、すべては残さない。手や足、頭を山の奥へ運び、別々に埋める。四本足は匂いを辿る生き物だ。ここを通った、ここに居た。そうして山へ匂いを撒き散らしてやれば、追ってきた二本足はその痕跡を拾いながら山へ踏み込んでくる。そして、山を畏れる。それが心地よかった。鹿も魚も、もう喰えない。腹は満ちる。だが舌が喜ばなかった。二本足のメスでなければ。今では、我を見て固まるものが良かった。逃げようとして転ぶもの。震えながら息を漏らすもの。涙と汗で匂いを濃くするもの。その畏怖と絶望に満ちた肉は、他の生き物とは違っていた。牙を立てる前から、美味かった。畏れの匂いは、なんと甘美なのだろう。山を移動しながら、我はあの匂いを探していた。そして見つける。喰い損ねた、あのメスの匂いを。忘れられぬ二本足だった。匂いの先には、古い木で囲われた二本足の巣があった。獣の皮と煙の臭いが染みついた、長く山に居る二本足の巣だった。綿毛に埋もれかけた小さな巣。その中に二匹いる。 若いメス。そして、歩みの遅い老いたオス。我は岩陰へ腹を伏せ、風を嗅いだ。若い、甘い匂いだった。以前喰ったどのメスとも違う。まだ山の畏れを知らぬ匂い。警戒を知らず、怯えを知らず、生きている匂いだった。やがて若いメスが巣から出てきた。木桶へ水を移しながら、小さく鼻歌のような声を漏らしている。白い息が冷えた空気へ消えていく。周囲を見ない、警戒もない。喉が鳴った。ここから駆け下りれば、すぐ届く。だが巣の中には、老いたオスがいる。そして、長い筒の臭い。以前なら、それだけで離れていた。だが今は違う。二本足への畏れは、もう薄れていた。あの水辺の主よりも我は大きくなった。縄張りを奪いに来た生き物もすべて退けた。二本足すら何匹も裂き、喰らった。負けるはずがない。崖を下り、音を殺しながら木々の間を滑るように進む。白い綿毛が深く脚を沈める。それでもゆっくり距離を詰めた。若いメスは、まだ気づかない。あと少し。風向きは我へ流れている。 その時だった。巣の戸が開き、老いたオスが姿を現した。 気づかれたか…。だが構わない。あのような小さき二本足など、問題にならぬ。老いたオスは長い筒を手にしたまま、真
二本足のメスのハラワタは、これまで喰ってきたどの肉とも違っていた。牙を立てるたび、ぬめる内側が指のように逃げようとし、噛み切れば弾くように跳ね返るではないか。逃がさない。熱いハラワタを前脚で押さえつけ、口を深く差し入れる。絡みつくそれらをまとめて引きずり出し、噛み潰し、飲み込む。腹の奥へ落ちるたび、熱が広がる。足りない。もう一つの肉塊へ顔を埋める。爪を立て、身体をひっくり返す。柔らかい部分へ牙を入れ、腹の奥からハラワタを引きずり出した。排泄物の匂いが混じる。だが、それすらも邪魔にならない。それ以上に濃い匂いが、舌も喉も支配していた。柔らかなものから順に、貪るように喰らっていく。熱はまだ残っている。冷めきらぬ肉の温もりが、口の中でゆっくりと消えていった。骨を割れば、中から染み出るものがある。それも余さず舐め取った。腕へ牙を入れる。皮が裂け、繊維が一定の方向へほどけていく。やがて、動かす部分が減っていく。傍らには、力なく地を見つめたままの丸いものが転がっていた。鼻先で軽く突く。小さき頃、同じように転がして遊んだことがある。だが今はもう、それだけだった。興味は続かず、我は次の肉へ顔を向けた。足先や頭の欠片。それらは喰わず、土を掘って埋めた。もう喰うためではない。匂いを残すためだ。ここにあると知らせる。ここに来させる。二本足のオスは来る。あの厄介な、鼻の利く四本足と共に。だからこそ、ここにはいない。血と肉にまみれたままでは、辿られる。私は水場へ向かった。流れの中に身体を沈め、毛の奥に絡んだ赤黒いものを擦り落とす。何度も、何度も。岸へ上がると、以前見つけた匂いの強い植物へ身体を押し付けた。葉を潰し、汁を毛へ擦り込む。首。背。腹。脚。自分の匂いを消すのではない。別の匂いで覆う。それが終わると、巣穴へ戻った。奥へ潜り込み、身体を丸める。静かだ。だが、遠くで何かが動いている。翌朝。まだ光が山に差し込む前から、遠くの方で声が響いていた。二本足らの声。何を言っているかはわからない。だが、落ち着きのない響きだった。やがて....山が弾けた。腹の奥まで響く、空気を叩き割る音。二本足らの長い筒の音だ。その直後、山は一瞬で静まり返る。鳥も、虫も、すべてが止まる。そしてまた声。「当たったぞー!」複数の声が重なる。荒い息。短い叫び。その間に混じる、四本足の吠え声。「ウォン! ウォ